顧客が不満やニーズを自覚し、モノやサービスを探しに行き、選択する。
このような一連の体験は、これまでユーザー主導のものでした。
しかし最近は、その前提が揺らぎつつあります。
AIエージェントが台頭し、ユーザーに価値を届けるラストワンマイルを握る今、顧客のニーズはより潜在的な段階からAI上に集積されていきます。
些細な悩み事や興味関心、まだ形になりきっていない言葉の数々が日々投げかけられ、ストレージされていく。
そこにある情報は、従来の検索履歴よりもっと人に見られたら恥ずかしい内容も含むものかもしれません。
より本音に近く、より深い欲求の断片のようなもの。
もしAIエージェントが、そうした蓄積を理解し、個人の代理人として機能しはじめたなら、「欲しい」と自覚する前に、その人の次の行動が決まっていく。
そんな世界になったとき、ニーズが顕在化してから届けようとする設計では、ビジネスとして成立しづらくなってくるのではないかと考えています。
HRの領域で言えば、人が「転職したい」という意思を持つ前に、キャリアの内部認知が形成されていく。
より潜在的な状態から、行動体験が設計されていく。
その変化の過程にどう関わるかが、問われる時代になるのではないかと思っています。
曖昧さをなくすことが、産業をなめらかにする
言語化されてこなかった感覚知をデータ化することについて、先日、1次産業×テクノロジー領域で事業を展開される経営者の方との会話から、深く考えさせられました。
「この土はいい」「この潮の流れはいい」
一次産業の現場には、こういう言葉が今も生きています。
何十年もの経験が体に染み込んで、気づいたら「分かる」ようになっている。
これを肌感覚と片付けるのは簡単ですが、そこには産業の本当の競争力が眠っていると思っています。
問題は、それが属人性を高めすぎてしまうことです。
参入障壁になり、承継が難しくなる。
担い手不足の背景にも、未来を感じられない産業には若者が集まらない、という現実があります。
産業の未来への橋渡しを考えたとき、ここをどう解消するかが鍵になります。
単にロボットを入れれば解決する、という話ではありません。
必要なのは、現場の最前線にいる職人たちの感覚を、教師データとして紡いでいくことだと考えます。
礎になるのは、テクノロジーそのものではなく、職人たちが積み重ねてきた感覚です。
曖昧の境界線をなくし、属人とそうでないものの間のグラデーションをテクノロジーで埋めていく。
できる・できないで分断されていた世界が、なめらかになっていく。
法改正や規制緩和といった制度的なアプローチも、セットで進めていく必要があります。
供給が崩れるとき、最初に変わるのは数字ではなく、人々の生活体験です。
食べたいものが食べられなくなる、続けてきた習慣が断たれる。
生活体験の変化が先にあって産業が変わるのは自然な変容ですが、逆は大きなショックになる。
そうなる前に手を打つべきなのだと、考えさせられました。
総量より配置が問われる時代へ
ニュース、現場、政策の議論でも、「人手不足」という言葉はもはやあらゆる領域で前提として語られています。
労働力人口は確かに減っている。
しかし、実際に労働市場へ投入されている労働力は、過去最高水準にあります。
かつては「労働者」として数えられていなかった主婦層、60代以上のシニア世代、副業や短時間勤務で働く人。
スポットワークのような仕組みも、就労の流動性をさらに高めました。
分母は確実に大きくなっています。
それでも人手が不足しているという現実は本物です。
ただ、「不足」という言葉だけでは、見えてこないものがあるのではないかと思っています。
先日、ある産業の現場に近い方々と話す機会がありました。
そこでは、決算など経営数字の上では好調に見える業界でも、採用市場はさほど伸びていない、という話を聞きました。
一方で、労働力は依然として必要とされているにもかかわらず、業界自体の停滞から求人が減っている領域もあります。
もちろん業界ごとの給与格差や、政治的文脈などもあり、問題は複合的です。
そこで、問いの立て方を変えてみてはどうかと考えました。
不足しているのは確かですが、それは「総量が足りない」というより、「配置が問われている」ということかもしれません。
どの産業に、どのタイミングで、どんな人材を。
その設計図なしに「人手不足だ」と叫んでも、断面ごとに最適解を探しつづけるだけになりかねません。
必要なのは、一時の最適化よりも、長期のロードマップではないでしょうか。
ある時期は縮小し、ある時期は回復する。
その起伏も含めて、年単位の道筋を描くことが求められているのではないでしょうか。
便利な言葉ほど、思考を止めてしまうことがあります。
「人手不足」もその一つかもしれません。
問いの立て方を変えるだけで、見える景色が変わることもある。
そう考えさせられた出来事でした。
便利な時代に、あえて「面倒」と向き合う理由
AIをはじめ、あらゆるハウツーやスキルが驚くほど容易に手に入る便利な時代になりました。
しかし、その便利さに頼りすぎることで、私たちは何か本質的なものを見落としているのではないか。
そんな疑問が頭をよぎります。
面倒なことは、誰もが避けたいと考えます。
ただ、面倒を避けつづけた先には、より大きな面倒が待ち受けていることも多いもの。
逆に言えば、今面倒だと感じることに正面から向き合った人は、将来その苦労から免除されるということになるのではないでしょうか。
結局のところ、人生においては時間をかけてでも習得しなければならない領域が存在します。
私はそれを「パーソナルスキル」や「ポータブルスキル」と呼んでいますが、端的に言えば人間力のようなものです。
これは、どれほど便利なツールが登場しても、決して代替されることのない領域だと考えています。
テクノロジーは日々進化を続けています。
それに対して、人間の側がアップデートされなければ、いずれ逆転現象が起きることになります。
AI に代替される側に回らないためにも、便利なものを活用しながら、同時に人間力を磨くという両輪を回していくことが求められているのではないでしょうか。
先日、企業不祥事のニュースが報じられた際、ある営業担当の方は、自分の顧客全員に電話をかけて状況を説明されたそうです。
すると、9割9分の方が「大変ですね」「わざわざ電話をありがとう」「あなたのことを信頼しているから大丈夫です」と、温かい言葉をかけてくださったと言います。
会社の商品力やブランドの問題ではなく、その方自身が日々積み重ねてこられた信頼関係があるからこそ、危機の時にも温かさが返ってくる。
このエピソードには、企業が人間教育を大切にする意義が詰まっていると感じます。
順調な時は、ハウツーやスキルである程度乗り切ることができます。
しかし、困難に直面した時こそ、再び立ち上がる力、人生における「再現力」のようなものが問われることになる。
それは何かといえば、やはり人間力に帰結するのではないかと思っています。
便利な時代に生きているからこそ、あえて面倒なことの価値を見直してみる。
スキルとハウツーを磨きながら、同時に人としての成長も怠らない。
そうしたハイブリッドな姿勢こそが、これからの時代には求められているように思います。
いま、成長をどう定義するか
先日、ある企業のリリースを目にして、少し立ち止まって考えさせられました。
人材領域で長年事業を展開してきた企業が、これまで継続的に投資してきた主力の一つとも言える事業を、事業譲渡するという内容でした。
その事業は、赤字を抱えながらも将来を見据えて育てられてきました。
一方で、会社全体としては黒字を維持、のちに事業としても黒字化を達成しており、経営が立ち行かなくなったわけではありません。
だからこそ、「ここで区切りをつけるのか」という意外性と同時に、企業経営の判断の難しさを強く感じました。
この出来事から改めて思ったのは、成長とは必ずしも「新しいものを足しつづけること」だけではないのではないか、ということです。
これまで成長戦略といえば、新規事業の立ち上げやM&Aによる拡大といった「足す」発想が中心でした。
しかし最近は、伸びが鈍化している事業や、将来的な競争優位が描きづらい事業をあえて切り離し、最も強みのある領域に経営資源を集中させるという判断が、大手企業においても目立つように感じます。
一見すると守りに入っているようにも見えますが、実際には非常に覚悟のいる、攻めの意思決定です。
育ててきた事業に区切りをつけることは、感情的にも簡単ではありません。
それでも、限られた資源をどこに賭けるのかを明確にすることは、将来に向けた強いメッセージでもあります。
背景には、事業環境の不確実性があります。
市場の変化、為替の変動、労働力人口の減少、デジタル化の進展など、前提条件が大きく揺れ動く時代において、すべてを抱えつづけること自体がリスクになる場面も増えてきました。
永続的な成長を目指すのであれば、「続ける」判断と同じくらい、「やめる」「手放す」判断の質が問われます。
だからこそ今、企業には改めて「何を実現したいのか」という問いが突きつけられているように思います。
新しいことに挑戦するのか、既存の強みを徹底的に磨くのか、あるいは一度引いて立て直すのか。
その選択は、手法論ではなく、企業としてのありたい姿に立ち返らなければ定まりません。
成長とは、足し算だけで定義されるものではありません。
ときには削ぎ落とし、選び直すこともまた、次の成長につながる一つの形なのではないでしょうか。
価値の揺らぎと向き合う
近頃の物価高や為替のニュースを見るたびに、価値の基準が揺らいでいることを実感します。
食品、不動産価格、サブスク料金……振り返ると「昔はこれくらいで済んでいたのに」と驚くものばかりです。
海外へ行くと、現地での何気ない出費にかかる金額の大きさを目の当たりにしたりするように、かつては当たり前だと思っていた物差しが、少しずつ輪郭を失いつつあります。
とはいえ、解決策は単純ではありません。
たとえば「給料を上げる」だけでは、その分を企業が販売価格に転嫁すれば物価が上がり、実質的な効果が薄れてしまうこともあります。
単一の視点で何かを動かそうとすると、社会全体に歪みが生まれかねません。
では、この揺らぎの時代の中で、私たちはどう振る舞えばいいのか。
私は最近、「どこに基準を置き直すか」という視点が、より重要になっていると感じています。
基準が揺れる時代には、“絶対的な正解”を探すより、自分たちが拠って立つ価値や市場を選び直すことのほうに本質があると思います。
たとえば、海外での消費が割高に感じられる一方で、「日本でつくり、外に届ける」モデルには追い風が吹いています。
寿司やラーメンのように、日本の当たり前が海外では高く評価されるケースも増えています。
基準が揺らぐ時代だからこそ、どこで価値を測り、どんな市場で勝つのかを選べる余白が生まれているのだと思います。
「日本は安くなった」と語られる背景には、単なる悲観ではなく、「基準が動いている」という大きな前提がある。
その前提に気づいたとき、私たちの選択肢はむしろ広がるのかもしれません。
競争優位の本質
最近、「AIが……」とAIを主語に語られるシーンが増えつつありますが、逆説的に、機能的ではなく情緒的なものの価値が改めて見直されているように感じます。
論理や再現性を追求する場合、機能的に考える力は重宝されます。
しかし、突き詰めれば最後は抽象的な「心」や「感情」の世界になる。
AIは膨大なデータから顧客のニーズや課題を特定できますが、それはあくまで“機械的に抽出されたニーズ”にすぎません。
「なぜその課題が生まれたのか」「言葉にならない違和感の正体は何か」といった情緒までは読み取れないため、どこか手触り感がないといったことも起こり得る。
だからこそ、ゼロから何かを発案するという“上流の創造”の部分では、やはり人にしかできないことがあるのだと思います。
もちろん、AIに自分のパーソナリティを伝え、「良き親友」「良きパートナー」として活用している人もいます。
ただ、社会全体で見たときに、「最後に誰に背中を押されたいか」と問われれば、まだまだAIより人間と答える人が多いのではないでしょうか。
そして、そういったAIが入り込めない情緒や感情の領域でこそ、人は大いなる価値を発揮すべきだと言えます。
AI偏重でもなく、人間偏重でもない。
これからの社会では、AIと人間らしさとのハイブリッドが大切になる。
そう考えると、私たちは自分の能力や価値観を磨き、人としての感受性を研ぎ澄ませる必要があります。
また、AIと人とのハイブリッドの時代とはいえ、全てを混ぜればいいわけではなく、分離すべき領域は分離して考えるべきです。
一言で言えば「AIとの共存」ですが、実際にはそれほど単純ではありません。
この人間中心社会において、「どこまでをAI化し、どこまでを情緒や感情に委ねるか」という線引きが、組織や個人の競争優位を左右するからです。
そのバランスをうまく取れる人やチームはこれからの時代により強くなる。
そしてその姿こそ、人間の進化の一つの形なのだと思います。